100周年記念事業の作文コンクールにおいて、入賞した作品を展示しています。(順不同、入賞者名は敬称略です)
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優秀賞
佳作
- 作文コンクール入賞作品集(PDFファイル)
優秀賞 「羽後交通のバスが私の足」 白土 朝子
私が小学4年生の時に 父が倒れ、入退院をくり返した時、羽後交通のバスで面会に行ったものだ。
その後中学を卒業し、准看護学校に入学してからの2年間は、殆んど毎週羽後交通のバスにお世話になった。学校は全寮制で土曜日の授業が終わるとバスで自宅に向かい、翌日の日曜日の夕方にバスで寮に戻るという学生生活を送った。
4人兄弟の末っ子だった私は、中学卒業後は他の兄弟と同様に就職をし、家計を助けるんだ・・・・とずっと思っていたのだが、進路相談の際に、担任からのすすめもあり、看護師への道へ進んだ。准看護学校に入学し2年間は、講義や病院実習、その後は働きながら定時制に通い、20才で県外の高等看護学校にすすむまでの5年間は、羽後交通のバスが私の足だった。
いつも鮮明に思い出されるのは、中学を卒業後初めての寮生活をしている頃、土曜日の午後には厚い教科書を持ってバスに乗り、自宅に一番近いバス停で降り15分程歩き、このカーブを曲がると自宅まで100mという所まで来ると、いつも決って母が道路に立ち待ってくれていた。そして、その100mの道路を両方から早足で近寄り、中間で母が荷物を持ってくれ自宅に向い、その夜は母の手料理を食べながら色んな話をした。
翌日は夕方のバス時間が近づくにつれ、また一週間始まる・・・、寮に戻らなければ・・・と、憂うつな気分になる。復習・予習をするつもりで教科書を何冊も持っていくのだが、そのまま持ち帰ることが多かった。
そして、自宅から100m先のカーブを曲がるまで、母は私の後ろ姿を見送り、手を振るのである。
カーブを曲がる頃には自然と涙があふれ、バスに乗る時にはいつも目も鼻も赤くなっていた。
来る週も来る週も待ってくれ、見送ってくれた親ごころ ありがたかった。40年以上も前のことだが今でもジーンと胸があつくなる。
その母も今年の初夏に他界し、意識がもうろうとしている中で、当時の思い出話をした。
優秀賞 「バスの思い出」 下タ村 正樹
「街に行く」それは幼少の時代に、羽後交通のバスに乗って母と出かける事であり、当時最も楽しみにしていたことだった。
旧山内村三又地区に生まれ、大学進学のために親元を離れるまでの間、バスは私にとって無くてはならないものでした。もちろん今もそこで暮らす母や地域の人達にとって、命を繋ぐ大切な足であることは変わりありません。
最も古いバスの記憶は、黄色の整理券を渡してくれる優しい女性車掌さんと、運転席の後ろの辺りから ロバの耳のように出てくる方向指示器です。
バスの前席に乗るのが楽しみで、大きなハンドルを回して運転する姿がかっこ良くて、ずーっと見ていたように思います。
中学生からは、朝六時四十五分の始発のバスに乗り、最終バスで夜七時頃に帰るという毎日でした。最初の頃はバス停までだいぶ歩いていましたが、そのうちに、フリーバスとなり、家の前から乗り降りすることができました。
バスから流れる「おおブレネリ」の音楽が近づいてくると、慌てて家を飛び出した事が懐かしいです。朝晩の運転手さんは地元の方が多かったので 本当に助かりました。部活の練習で疲れて寝ていても、家の近くに来ると「起きろ、着くよ」と何度も起こしてくれました。
乗った時点で、家に帰ったように安心させてくれた優しい運転手さんのおかげで、私も妹達も楽しい学校生活を送ることができました。
私自身、バスでの通学で色々学んだ事が多かったので、娘達も毎朝バスで通学させています。
運転免許を取得してから、路線バスを利用させていただく機会は少なくなりましたが、お世話になった者の一人として、狭い道路ではバスに道を譲るということを、心がけております。
百年という長きに渡り、郷土の繁栄に貢献されたことに 深く感謝すると共に、これからも 地域の暮らしを支える企業として、ご尽力いただきますよう お願い申し上げます。
佳作 「待てポッポの雄勝鉄道」 須田 若子
昭和35年4月、高校進学に伴ない雄勝線の利用者となる。湯沢―梺(羽後町元西地区)間を走る電車の三輪―湯沢間を利用。
三両編成のこの電車は、朝の上りは一両目一般客、二両目女子生徒、三両目男子生徒。午後からの下りになると、男女が逆になるというおもしろい光景になるのであった。又少し遅れても待っていてくれるので、「待てポッポ」と言われ、当時の駅員さん達の人柄と、鷹揚さが表われている良き時代だった。
又先生達も「電車に遅れたのか?電車が遅れたのか?」の原因解明に教室も穏やかな雰囲気になり、遅刻者もホッとして席に着く状態。
通学も歩き、汽車、自転車と様々で、同級生達から好奇心に駆られる。
そこで3年の秋「電車に乗って七曲峠へ遠足」を計画した。
250人中、女子15名の我が学年だったが女子だけを募る。又、横手から通勤されていた担任も、幼児の息子さんを連れて参加。終点の梺駅で降りて紅葉の七曲峠を散策。今では冬の花嫁道中で知られる様になったが、何かが出て来そうな山道だった。でもその日の風景は、修学旅行で見た「「いろは坂」より美しかった。
今でもこの時の思い出は集まると話題になり、頭に響くあの「ガタン、ゴトン」は、忘れないと語る同級生を見る時、実行して良かったと思う。
只自分の中では、電車賃の定期代と、授業料が重なり、とてもつらく心苦しかった。決して裕福でない我家の経済状況を知っているだけに、自転車で通える地元の高校へ行くのが、親孝行だったのでは・・・・と思ったりもした。
ところが卒業して十数年後、この思い出多い「待てポッポ」のラストランを、湯沢駅で 我が幼児2人と手をつないで見送ったあの瞬間、なんて幸せな私がここに居るのだろうと感動した記憶は、今でも忘れられない雄勝鉄道との、思い出である。
佳作 「バスと中学野球部」 高橋 薫
私の父は、羽後交通の湯沢営業所勤務でした。私が小学六年生頃(昭和四十五年頃)の事です。夜、父が仕事から帰って来た頃を見計らって、親戚の兄弟が神妙な面持ちでやって来ました。兄の方は大人でしたが、弟は中学三年生でした。
話が終わって帰った後父は、少し笑みも含め、「あのクソ悪ガキだ!」と言葉は悪いですが、父なりの愛情のある表現で言ったことを覚えています。
何があったのか。色んな人からの話を総合すると、この日、どこかで、弟達野球部が試合をして、その帰りバスを利用したそうです。そして、小安停留所で降りる際、なんと全員「小学生で―す。」と言って、小人料金で降りてしまったと言うのです。中には髭面の人もいたとか。揚げ句のはて、去っていくバスに向かって「あっかんべー」をしたそうです。
ところが、天罰は下るものです。野球道具をバスの中に置き忘れた事に気が付き、彼らは茫然となりました。バスはすでに湯沢営業所に戻っていたので、どうしたものか、父に相談しにやって来たのでした。
この事は学校にも知れ、監督はカンカンに怒り、部員を一列に並べ、次々と椅子で殴っていったそうです。それを知ったある母親は「俺えのガキなば、ろくでねなだ!先生、もっとやってけろ。」と言ったそうです。大人になった部員も、
「あれなば、俺だ悪り。」と笑っていました。
古き良き時代といいますが、子供のやんちゃ、先生の威厳、親の寛容、現代と真逆の出来事に、バスを通じて、懐かしく思い出されます。
父は、彼らを連れて行き、謝らせて道具を持ち帰ったと言う事です。
佳作 「赤色バスで北海道へ修学旅行」 深澤 勝
44年前、私たち千畑中学校5期生は、何と初めて羽後交通さんの赤色バス5台を連らねて、北海道へ渡り修学旅行を楽しみました。
5クラス190人の同期生が居てそれまでの東京への修学旅行から 北の大地に向けて、しかも例の赤色バスを青森から函館までフェリーに積んで、道南を巡ると言う前例の無い企画でした。
いささかなりとも分別のある社会人?と成った今から想っても、当事の羽後交通さんの担当者の皆さんや教師陣からしても大きな冒険の3泊4日の旅行計画であったに違いありません。
「15の春」の記憶をたどると、幸い天気に恵まれ函館山から「100万ドルの夜景」に驚きの声を上げ、白老ではアイヌコタンの物珍しい衣しょうや踊り、今も美しい大沼の風景が浮かびます。夜は夜で大広間での枕投げや、大浴場での泳ぎありと、どれもこれも今の一室2~3名のシテイホテル宿泊形式とは趣がちがって、それはそれは 楽しいものでした。
今は2泊3日の修学旅行が多い中、4日間も秋田から北海道へバスを上げ赤色バスで私たちを乗せて安全にハンドルを握って下さった、ちょっと武骨なプロのドライバーさんに大きな感謝です。さすがプロの運転士でした。
今1つは 男子生徒の多くが抱いたバスガイドさんへの甘すっぱい淡い憧れ。
中学生の私たちより3歳ほどしかちがわない お姉さん。
旅行4日間、バスの中ですごす濃い時間、やんちゃな中学生男子を飽きさせないゲームと名所案内、今も変わらない青色旗に、皆つらねて歩を進めました。
団体旅行は、つまるところ到着地からバス移動。荷物をかつぐ事も無く快活です。還暦に近づいた今、再び同期生とバス旅行で若き日々に戻れると気持ちを新たにしています。
赤色バスは想い出色の玉手箱です。
佳作 「羽後交通の皆様へ」 大沼 ひとえ
2011年3月11日。東日本大震災と名付けられた大地震によって、私達家族は自宅を失いました。戸棚のお茶碗一つ壊れていないのに、地滑りで家が丸ごと移動してしまったのです。同じ仙台市内でも、比較的被害の少なかった実家に身を寄せました。
実家では、二歳の姪から九十三歳の祖母まで十名での暮らし。こんなに大変な災害の後、いつ日常が戻ってくるかもわからない毎日なのに、私たち家族から笑顔が消えることはありませんでした。地域のためのと、荒れた店を開けたドラックストアの店員さんへ、おにぎりを届けました。いつも隣の公園で犬を散歩させているおじさんからは、子供達がこの大惨事を 元気に乗り切れるようにとイチゴを頂きました。みんな、自分ができることをしないでは いられない気持ちだったのだと思います。「お互い様」の交流が、あの頃の笑顔の源だったのです。
震災発生から六日後、高速バスの運行が再開した日のことでした。秋田に住む親戚が我が家に向けた支援物資を、羽後交通に託したから、駅のバス停で受け取ってくれというのです。秋田から乗客に混ざって、荷物を運んできてくれた運転士さん。「なんにもできなくてな。何とか頑張ってけれな。」本当なら、荷物だけを運んでくるなんて、してはいけないことだったでしょう。それを引き受けてくださったこと、温かい言葉をくださったこと。こうした人々の気持ちに支えられて、私たちは少しずつ喪失感を乗り越えてきたのです。
お蔭様で私達は日常を取り戻しています。あの時、どんな気持ちでこの荷物を運んできてくださったのでしょう。羽後交通のバスを見ると、いつも思い出すのです。
運転士さんも、それを許してくださった会社の方々も、どうか元気でお過ごしでありますように、お祈り申し上げます。
佳作 「支えられて」 鈴木 さむ子
「いってらっしゃい」と送り出した一泊二日の旅、その時の母の顔は、孫からも離れ 総べて自分の時間として楽しめる そんな嬉しさが伝わって来ました。
旅行が決まると、知人、友人に声をかけ募集が始まるのでした。いよいよ旅行が近づくと、数人が洋服を持って我家に集まり、ファッションショーの始まりです。「どっちの洋服がいい?」と私まで誘われ、洋服選びをしたものでした。
出発まで母は忙しい日々を送っておりました。
羽後交通の社員である、私の夫のために、常に一人でも多くの募集を心がけている母でした。今、母がいつも私に教えてくれた言葉を想い出します。
「会社が良くなれば、社員もよくなる。だから会社の為に家族みんなで支え合うことだよ」と教えてくれたのを、つい昨日の事のように想い出します。
私の夫は幸福者で、夫の両親、祖母、私の母、私の兄弟みんなが支えて下さって企画の旅行も、本人が募集を始める頃には、ほぼ人数が決まる状態でした。退職前の企画では二十九名の参加を頂きました。
退職後は自分でゆっくり企画の旅をしようと考えていたようですが、ありがたい事に今でも秋になると「今年の旅行なんと なってる?」と電話があります。
長年のおつき合いもあり、すぐに十五人前後の参加を頂けます。
これも母の言葉を心の片すみに留めて、お客様と向き合って来た賜物だと思っております。
私は、平成十八年に病気をしましたが、企画の旅行に参加したい一心でリハビリを続けました。退院二年後の夏の企画から、車イスを持っての旅行も、気心の知れた旅仲間の助けもあり参加することができました。そして今でも私に寄り添い 旅行に連れて行ってくれる夫に感謝です。
今はゆっくりな歩みではありますが、楽しく参加しております。
さて、今年はどんな企画になるでしょうか・・・・